若い日々

近頃会う人会う人に「はなちゃんすごく最近楽しそうだね」と声をかけられる。もしかしたらそれは遊んでばかりいる私への小さな皮肉なのかもしれないし、私も少し恥ずかしくなって「楽しそうに思われたいだけだよ」なんて格好つけて返すけど、大口開けて笑いながら酒を飲み、たまに昼間からこっぱずかしいようなデートをして控えめに笑い、女友達と口汚く罵り合いながらとめどなく男の話をして、これが楽しさでないのならなんと言うのだろう。

 

f:id:hanabebop:20190607220124j:image

 

私は寿命についてよく考える。それはいわゆる一般的な生き死にという意味の寿命ではなく"女"としての寿命や"若者"としての寿命のことだ。容姿や性格関係なく、若者として存在することの恩恵は多分思っているよりもずっと多い。ましてや若い女性ならなおさらだ。この先、目が回るような経験と出会いをいくつも繰り返しその度に少しずつ年老いて、その時の私もその時の私が楽しいと思ういくつもの出来事に遭遇していくと思う。ただ、若さだけを1つ握りしめて闊歩するような、守るものもなければ恐れるものもないような危なっかしくてエネルギーに満ち満ちたこの感じは、年老いた私では楽しみきれないに違いない。

 

f:id:hanabebop:20190607220119j:image

 

酔っ払って半分しか開かない目で見た友人の背中越しのぼやけた繁華街の明かりも、似合う似合うと大声で褒め合いながら買って多分近いうちに履かなくなるミニスカートも、チープで笑っちゃうくらい子供っぽいキスだってもうすぐ全てが寿命を迎えていく。パキッと全部が淀みなくみずみずしく輝いていてそれでいてあらゆるものがないまぜになったような、いびつで、涙が出るほど愛おしい、私たちの若い日々だ。

お裾分け

得意なことってあんまりないけど、人の良いところを見つけるのは割と得意な方だなと思う。

 

相槌のタイミングが絶妙だとか、周りをよくみているだとか、服のセンスが異様にいいだとか、そういうさりげない、しかしどうしても褒めたくなってしまうようなうっとりする部分を見つけるたびに、私は同時にその人の持ち物にその「良いところ」を加えることになった背景のことを思う。

 

話を聞くのが上手い彼女の母親は稀に見るおしゃべりなのかもしれないし、彼の服は実はお洒落な彼女がせっせとこしらえてくれたものなのかもしれない。もちろん周りに叱られて矯正したのかもしれないし、反面教師を見た可能性もあるので必ずしもそうとは言えないけれど、そういうその人を囲むものの「良さ」が別な形でその人自身の「良さ」になって私を微笑ませてくれているというのは、なんだかお裾分けのようだと思う。

 

誰かが私の良いところを見つけたときにきっとその背景にあるのは、そういうたくさんのお裾分けなのだろう。

 

あの時言えなかったこと

親友が泣いていた。誰かのために夕飯を作ったり初めて家族ではない他人の洗濯物を畳んだりするようないくつもの夜を越え、でもついに朝が来なくなってしまった。深夜1時、私たちの他にテーブルが2つしか埋まっていないそれなりに静かな店内で、目を赤く染めて唸りながら涙をポロポロこぼしていた。

 

f:id:hanabebop:20190607220325j:image

 

ほぼ初めての彼氏と呼べる彼氏、色違いのスリッパ、家鍵の隣に並んだ合鍵、他人の家に置かれた部屋着。あっけないほど短い期間の中でもそこに涙をこぼすだけの理由はきちんと存在していた、とわたしは思っている。

 

「もうわたしのこと好きになってくれる人なんていないと思う」という言葉がひどい間違いであることをわたしは知っていたけれど、新しく彼女を好きになってくれた人の存在でしかその間違いが彼女の中で正されないということもわかっていた。

ただ、わたしは「ムカつく〜〜」という言葉と裏腹に嗚咽をこぼす彼女の素直さを本当に素敵だと思ったし、その可愛さが報われなかったことをひどく勿体無いなと感じていた。私の彼氏の愚痴を聞きながらも自分の彼氏の愚痴は全く出て来ない執心ぶりや、恥ずかしさから私ではなく地元の友達に惚気ていたそのいじらしさを思い出すたびに私は何度も勿体ないなと思うに違いないし、際限なく流れていた涙の行く末を思いながらやはり惜しいことだと思うのだ。

 

f:id:hanabebop:20190607220017j:image

 

似た後ろ姿を見かけて小走りになること、雑誌後ろの占いページの星座を2つチェックしてしまうこと、スーパーの食材を見て特定のものを避けてしまうこと、ふと流れる有線の中に思い出のバンドを見つけてしまうこと、きっとこれから暫くそういうことを続けた先に、星座は牡牛座から射手座になって、きのこはエビに変わって、ミスチルスピッツになるような日が絶対にくる。そういう日が来た時に、私は多分勿体無さをやっと拭って、嬉しさと喜びとちょっとの寂しさを感じることになるに違いないのだ。

 

学内カウンセリングに行ってきましたレポ

今回の趣旨は題を見れば火を見るより明らかだ。

多分常識人であればこういうものを書いたりしないし隠す程ではないまでもおおっぴらにすることはすべきでない。ただ自分では消化できないような悩みが少しありでも病院に行くほどでもないなと感じている私と同じような人の参考にしてもらえれば良いな、と他よりいくばくか正常でない思考回路で思ったのと、私の中で文字にすることは一つの整理的な意味を持つので書いてみようと思う。一応断っておくが、本当に辛さを感じている人にとってこの文章はなんのためにもならないので、個々の悩みに応じてきちんと病院を受診してほしい。加えて、全てのカウンセリングの場が私の受診したところの概要と一致するわけでないということもお断りしておく。

 

学内カウンセリングというのは、その学校に属する生徒が無料でカウンセラーに話を聞いてもらうことのできるものである。高校にもそのような機会は設けられていた記憶があるし、友達によれば短大や専門学校などにもきちんと併設されているようで、会社に開設されているところもあるだろう。

最初に学内カウンセリングのシステムについて話そう。複数のキャンパスを有している私の大学は、各キャンパスに一つカウンセリングルームがありその全てが平日の9:00〜17:00にその場を設けている。私は所属キャンパスとは異なる自宅から一番近いキャンパスのカウンセリングルームに予約の電話を行なったが、スタッフの方によれば原則自分の所属キャンパスのルームでの受付になるようだ。ただ、私の予定と所属キャンパスのルームの予定がうまく合わなかったため今回は特別に許可をいただいた。一回のカウンセリングは50分で、最高でも週一回しか受診することができない。複数回カウンセリングを行う場合も毎回同じカウンセラーさんに話を聞いてもらうことができる。

 

ではここから実際の流れに移ろう。カウンセリングルームに入ると1人の女性のスタッフさんを確認することができた。私は今回が初回だったため用意された紙に氏名や住所、相談事の内容を記入した後別室へ案内された。椅子に腰掛けるとカウンセリングルームのシステムが書かれたa4の紙を一枚渡され、目を通しておくようにと言ってスタッフさんは退出した。受付では音楽がかかっていたが実際にカウンセリングを行う部屋はテーブルと椅子、本棚があるだけで静かであった。お菓子や飲み物が用意されてそうという私の邪な想像とは異なりそのようなこともなく、少しした後に先ほど受付を行ってくれた人とは異なる女性が入ってきた。ネットで調べたところ私の大学には男性のカウンセラーさんもいるようなので、もしかしたら利用者の性別に合わせて選考しているのかもしれない。カウンセラーさんから自己紹介がなされるとそこから実際の相談内容に沿って話が進んで行く。私の相談内容はアルバイトを続けたい意思があるのにどうしても続かないことやコンプレックスが悪影響を及ぼした対人関係のトラブルから生じてくる、自己否定に関する悩みだったが相談内容が利用の参考にはならないと判断してここでは掘り下げることはしない。普通であればカウンセラーさんの質問のベースがあってそれに対して返答するという形なのかもしれないが私の場合は私の話に対してカウンセラーさんが質問を行なっていく形であった。私の当初の想像よりもカウンセラーさんの質問回数が多く、対話の形式が強かったのが印象的だった。15分くらいで終わるかもなと予想していたカウンセリングだったが、話が多いという私の性格もあってか50分はあっという間に過ぎ、もちろん話も最後までたどり着かなかった。これが最初で最後になるだろうと踏んでいたので、相談内容が次回に持ち越され二回目以降の受診が確定した時には驚いた。カウンセラーさんの出勤日に合わせて次回の予約を取ってその日は終了した。これが私が体験した学内カウンセリングの流れである。

 

今回カウンセリングを受け、その悩みが解決してもあるいはしなくても、自分の生活とは無関係な人に話を聞いてもらうことは非常に良い作用があると感じた。もちろん知人に話を聞いてもらうこともリフレッシュには繋がるが、無関係であるがゆえに気兼ねなく自分の考えを述べることができるのは大変良かった。勉強は人に教えられるくらいになればベストというのはよく言われるが、同様に、悩みも人に伝えるという行為を介することで自ずと整理に結びついていっている。また、大多数の人が感じるであろうカウンセリングに対する堅苦しさのようなものも全く感じなかったため利用のしやすさを確認することができた。

その大きさに差はあれど悩みのない人間はいないだろう。もちろんカウンセリングに行くだけで悩みが解決するわけではないものの、その解決に向けた一つの手段として是非多くの人に気兼ねなく足を運んでみてほしい。

いいね

何に対しても常に好きという気持ちより嫌われたくない気持ちが勝っている。溢れかえる情報ネットワークとそれを介したコネクションの中で、人の好意は一昔前よりも容易く不本意な形で伝わってしまうことが増えた。そのネットワークに身を投じている一人として、そして20歳の今だ頼りない一人の女として、そのことが非常に恐ろしい。

 

一方で、snsが用意したステージでいいねや足跡をつけることやもしくはつけないことでしか伝えられない好意も少なからず存在することを私は知っている。その昔、簪が好意の象徴であったとはよく言ったもので、伝えようがない感情を形に残しておくためには、小さなディスプレイをタップしてあの親指で隠れてしまう小さなハートを色付けるしか方法がない。しかしそうしてハートが色付くのはこちら側の世界で、そうしたからと言って相手側の画面が虹色に変わるわけでもない。私たちが色をつけたいのはそちら側の、生活、であるというのに。

ネイルポリッシュ

小さい時から何度も何度も母親に不器用だと言われ続けてきた。大きな画用紙に大きな文字を書いたパネルを使って授業成果を発表する会があったのは確か小学三年生の時である。私は割り当てで私ではない子が書いたバランスよく文字の並んだそれを持つことになったが、それを持ちながら「この綺麗なパネルを持っていればお母さんはわたしのことを器用と思ってくれるかもしれない」と確かに思ったのを覚えている。その子と同じ紙に同じペンで書いたはずの私のパネルにはどうやってもグチャグチャの文字しか並べられなかったのだ。

 

そんな母は今適当な色で塗られた適当な形の私の爪を見ながら「器用だね」とよく呟く。その言葉をもらう事をあれだけ望んでいたにも関わらず、私は今自分で自分のことを「不器用」とのカテゴリーに区分けしてしまっている。画用紙一枚に淡い期待を抱いていた私はまだ自分の中の発揮できていない可能性を信じていたに違いない。ごめんね、あの頃のまだ可愛い私。私はもう自分の限界のようなものを決めてしまったよ。今の私にできることは、「ただの」不器用であることの恐ろしさから逃げるための、不器用さを飾り立てて人の目に触れさせるという悪あがきだけになってしまった。不器用さは画用紙の上の文字だけにとどまらず生き方にまで浸透してきてしまって、その上その事実を真正面から受け止めることが怖くてできない。自分の欠点を知りながらどうにかこうにかうまくやろうとしていたあなたより年をとりながら人間の本質的はどんどんと退廃を重ねている。

 

まだ諦めすら知らないあの頃の私が未来握るネイルポリッシュが、不器用さをごまかすためのツールにならないことを祈る。

利潤と損失

つい先日私は成人式を終え、かくして「大人」と形容される成立条件すら不確かなものへの仲間入りを果たした。人類が誕生してから気の遠くなるような年月が経った。想像でしかなかったものたちが、光のような速さで発達する技術によって年々実現しているのにも関わらず、私たちは未だに「大人」になるために必要なものすら分からないままなんとなく「大人」になってその利潤と損失をきっちりと受けている。不正受給も甚だしいと思いながら煙草をふかし酒を飲み利潤を受けるのは皆同じで、もしかしたら知らず知らずそれは税金や労働という名の損失と向き合う為の手段になってしまっているのかもしれない。

 

その損失に耐えきれなかったのか。私の父はアルコール依存症になってしまった。良い会社に入ってから良い給料をもらうようになるまでに受けた損失は、きっとその利潤をもってしても賄えなかったに違いない。歳を重ねるにつれて小学校や中学校の思い出は霞がかかったように見えづらくなるが、私が幼稚園の年中さんだった頃に父が毎晩飲み会に付き合わされ育児に参加できていないことを母に咎められ怒鳴られていた記憶は未だにある。それはもしかしたら私が成長してから母が父に対し毎度怒る時の言葉をつなげて作り上げてしまった偽物の記憶かもしれないがその真偽は今特に必要ではない。何度も血を吐き何度も救急車に乗り医者に「もうダメかも」と言われ、私たちと父方の祖父母の仲を最悪にし、娘の登校時に酒に酔って血みどろになって朝帰りする自身の姿を見せてまで未だに酒を断てないままいる彼のことを何度憎らしいと思ったかわからない。ただ、酒を飲み母に暴言を吐く父と、なんでもない時に急にすすり泣きを始めてしまう母の姿を見ながら、もしかしたら私自身が彼にとっての損失製造機だったのかもしれないと最近思う。

 

本棚には母が買ったアルコール依存症の体験談や克服術などが書かれた本が埃をかぶってずらりと並んでいる。まるで「多分もうどうしようもないよ」と言ってるかのようなくたびれた背表紙を横目に、これから数年経たないうちに私を襲うであろう損失に耐え抜くため、利潤が入った缶の蓋を今日も開けようとしている。