地獄の釜で月見酒

あんなに命の源にしていた作家さんの本が読めなくなりました。
命の源になった作品はちゃんと読めるけど、最近出版された本に書かれていることは、宇宙語があればこれがそうなんだろうと思うくらい理解ができない。
でもそういう理解のできない思想を持つ人が世の中にはいて、私もまた誰かにとってそうなんだろうという気づきにはなりました。

人生に運転代行というシステムがあるならまだしも、残念ながらそんなものは存在しないので、私は自分の足で立ってずんずん進んでいかなくてはいけない。地獄の釜に浸かって、何なら浸かりすぎて熱さもわからなくなって、挙げ句の果てに地獄の釜で月見酒でもしているような一年だったけど、「前より元気になってる気がする」という友人の言葉で、やっぱりそれでもちゃんとずんずんと歩みを進めていたのだなと気づきました。
私が代わり、その人も代わり、それは理解できないことができて当然だ。

私の変化に気づいてくれる友人もまた、歩みを進める中で私のことを嫌いになるかもしれないし、私もそうかもしれないなあ、でも今日のことやこれまでのことが命の源であることは一生変わらないなあと思いながら、
私がこれ以上元気になってしまえば、ただの溌剌としたいい女が生まれて世界の均衡が崩れかねないと思わない?と聞いたら、うんとかいいえとかのかわりに、
「うわ、このつくね信じられないくらい美味しい」
と返ってきました。

塩の道

上京してひと月が経った。

 

本来なら明日記念日を迎えるはずの恋人は

もうわたしの隣にはいなくて、

わたしの知らない街の知らない女の子と

多分今もきっと手を繋いでテレビを見たり

散歩をしたり、している。

 

元恋人を好きな気持ちはもうかけらほどしかなくて、

戻ってきて欲しい気持ちなんてもう認識もできないけれど、

知らない街で新しい仕事をして生きてく時に頼りにしよう頼りになってあげようと思っていた道しるべが急に消えるのはわたしが想像していた以上にきつかった。

 

わたしが今しんどいなと思うのは、

その人と別れたことでも、その人に新しい恋人がいることでもなくて、

人に必要とされていないという事実と、誰かからの需要の有無にいちいち肩を落とす自分の弱さと、そうして落ち込んでたくさんの人に泣きついて迷惑をかけていることだ。

 

 

頰に残った塩の跡を涙でこするような途方も無い日々が、ひたすらに続いている。

新しい毛布

 

布団を顔に近づけて初めて、

匂いでそれが新品であることに気づいた。

 

そういえば歯ブラシもシャンプーも

わたし用の新しいものが用意してあった。

 

 

 

父親の顔は最後10ヶ月前に会った時より随分と老けこんでいて

目頭付近から続くシワが緩やかに頬へと伸びていた。

アルコールに飲まれ妻に見捨てられ、学費を払っている子供達との連絡も数えるほどしかないような、そんな彼の生活がそのままそこに刻み込まれていた。

 

 

依存症を報告しているために会社の同僚とも飲めず、知らぬ土地で1人いる彼のことを慰めるのが、また酒になってしまうのは想像するに容易かった。

 

 

 

 

 

きっと明日の朝エレベーターホールで彼は、

むかしわたしを抱き上げたのと同じ手でわたしにハグして前回と同じように「またおいで」と言うに違いなかった。

そのあと、私がどうするかというと、毛布に残った涙の跡がすっかり消えるように時間をかけて、ありがとうとまた来るねを何度も繰り返すのだ。

一人暮らしのfever

一人暮らしを始めて、初めて熱が出た。

平熱34.9度を記録したことのある私は37度以上を出したことがここ何年もなかったし(多分)、まあ大丈夫だろうと試しに使った体温計がピカーンと高熱を叩き出したのには大変驚いた。

 

まあ最近結構ハードすぎる毎日だったし疲れが出たかななんて言って

昼頃には割と大丈夫な気がして

大好きな野菜スティックを食べてご満悦で昼寝を再開したら、

あろうことか、母親のひんやりした手が私のおでこに乗せられる夢を見て、それでさらにあろうことか「しんどい」と泣き叫ぶ自分の声で起きてしまった。

最悪である。

 

私は自分の中に謎に赤子じみた部分があるのを自覚している。熱を出すくらい頑張った自分が可哀想で心細くて泣けてくる、実家にいた時から風邪を引いたり早退する時母親の顔を一目見ただけで泣いていた。驚くことに高校生でも泣いていた。

 

流石に母親には連絡できないし、他の誰に電話しても熱が出てしんどくて号泣なんて恥ずかしいしで、苦渋の決断で父親にしゃくりあげながら電話した。

40度も超えないような熱で明日札幌から来ると言い張る父親を必死で止めながら、一人暮らしをしたくらいで一人前になった顔をしていた自分が恥ずかしくてまた泣けてきた。

それゆけ!PMS

まずありがとうを言わなければいけない。

ありがとうございます、私が生理になるたびに痛みは分からずとも都度気にかけ、理解を示してくださった、私と今日までに関わったことのあるすべての男性。

 

昨日ある男性に「腹痛い?知らねえよ」と言われた私は、まさに雷を食らったように、その文面が書かれているスマホの画面を10秒ほど見つめていた。私は新種の生物と出会ったような気持ちにすらなっていた。

 

痛みや苦しみは共有できるものではない。ましてや生理の痛みなど、経験ができないのだから男性は分からなくて当然である。あまり生理痛がなかった昔は女の私ですら、他者の生理痛に関して「痛いんだ、ふーん」くらいに思っていた。

 

それでもまさか、痛みなんて知ったことかと苦しんでる本人に言う人間がいるなんて……!と思いつつ、こういう人間はきっと他にもわんさかいるのだろうとも思う。私がたまたまグーゼン優しい方たちと出会えてこれただけだったのだ。

ありがとう、素敵で紳士的な男性の皆さん。きっとその気遣いで救われた女の子たちがたくさんいるんだろうな。私もその一人です。

 

さて、腹がねじれる痛みで目が覚めてウーウー唸っていましたが、薬を飲んだら落ち着いたのでこれを書きました。もう一眠りしてきます。

21歳のマザーコンプレックス

昨日ツイッターに流れてきた漫画の画像を見て泣いた。母親が、一人暮らしを始める息子のことを思って書いたあの漫画。もし見てなくて気になったなら私のいいね欄にあるのでぜひ見て欲しい。

 

私は母親が好きでは無い。

厳密にいうならば、母親のことがあまり理解できなかった。ものの見方、考え方、人への接し方、感情の動き方、その全てが母への嫌悪感につながっていた。だから家を出たし、それで私は久し振りに"家で息ができる感覚"を思い出した。それくらい当時の私は母親と暮らしていくことに疲弊していた。

 

ただ、今でも、母親に可愛く思われたかった頃の私がふとした瞬間にひょっこり顔を出してくる。怒鳴り声と私を叩くその手が落ち着いた頃「ごめんね、でもあなたが大事だから怒るんだからね」と私を抱く母の優しい声を救いに感じていた頃の幼い私だ。母親にいい子だと思われたい、自慢の娘と言われたいと心の底で思っていた。妹と弟に予定があって、わたしだけが買い物についていくことになった日の少し嬉しい気持ち、しばらくののちに、あんたが来ると険悪な雰囲気になると言われ続けていつしか一緒に出かけなくなって妹と弟と母親の後ろ姿がドアの向こうに消えていくのを見守るようになったこと、「年末年始に駅前でたくさんご馳走を買うのが大好き」とずっと言ってきた私なのに遂に家族の中で一人だけその買い物に呼ばれなくなった今年のお正月、母親が私を疎ましく思っていたのはもう明らかだった。

 

無断で家を出た、大学もお金だけがかかる無名の私立だし、正社員で働く母の手伝いも十分にはできていなかった。思っているわけないのだ、そんなことはわかりきっている。それでも「お母さんは私のことを誇らしく思ってるだろうか、一回でも思ったことがあったらいいのに」と、10年後に家を出ていることなど知る由もない背の小さな私が言う。

マックのコーヒー

人の生活にまつわる色々な物事は常に目まぐるしく変化していて、ずっと同じことはあまり存在しない。これしか合わないと思っていたはずの口紅よりも質感の良い1つは3ヶ月もしないで見つかったし、頭が痛くならない香水は探してみると案外あった。ラーメンはやっぱり苦手でたぶんもう一年近く口にしていないが、水菜は結構食べられるようになった。季節だって一年に4回も変わるのだ。当たり前である。だから私たちは懐かしい音楽に再会するたびにその頃の失恋を否が応でも思い出すし、コストコの大きなピザを食べるたびにオーナーと喧嘩してやめたバイトの休憩時間まで空気は巻き戻る。

 

ただ、マックのコーヒーだけは切り取った場面場面にどうしても登場してしまう。とりわけ深夜のマックのコーヒーは。まぶたに浮かぶ光景の大体が夜になってしまうのは選択肢の少なさ故だ。深夜のマックは砂漠のオアシス、赤い看板だけが居場所になってくれている。だからマックのコーヒーを持ってるわたしはいつでも誰かを待ってるし、いつでも少しさみしい。ただ、「お待たせ」という四文字と共にやってきた金色の髪が眩しいようなことがあの時間のマックにはどうしてもある。その時のわたしは「全然待ってないよ」とかなんとかきっと言ったはずだ。ちょっと前に熱いコーヒーが入っていたはずのカップの中はもちろん空。寂しさもその時までには飲み干してしまっていたのであればよいなとその頃の私に切に思う。